タイトルエルヴィス・プレスリー記念館の画像

偉人の愛した時計 第3回
エルヴィス・プレスリーとハミルトン

 

時計ブランドと偉人の歩んだ歴史や逸話を語るこのコーナー。

今回は筆者である私も少なからず影響を受けた「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれた男と、そんな彼の故郷であるアメリカで誕生した時計メーカーのお話です。

 

 

 

腕元からアメリカを支えたハミルトン

ハミルトンは1892年、アメリカ ペンシルベニア州ランカスターにて創業を開始しますが、少し変わった経歴の会社でした。
一般的な時計メーカーとは異なり、中小の時計企業の合併により誕生したのが特徴で、前身となるアダムス&ペリー時計製造会社は1874年頃に設立されたものの、再編成による企業名の変更や他企業からの買収、倒産などを経た結果としてハミルトンは誕生しました。

その社名は発祥の地であるペンシルベニア州ランカスターの元大地主で、ペンシルベニア植民地総督及びフィラデルフィア市長も務めたジェイムズ・ハミルトンから取られているそうです。
現在はスイスのスウォッチ・グループ傘下の腕時計ブランドになっていますが、創業から111年に渡ってハミルトンは多くの時計をランカスターから届けていました。

 

 

1.鉄道時計会社としての活躍

当時の新聞記事の画像

ハミルトンが誕生した1900年前後というのはアメリカ鉄道業界が全盛期と言われていた時代。
当時、国内輸送シェアの9割を鉄道が占めていたという話もあったほどで、人々の生活に鉄道は無くてはならない時代でした。
そんな中、度々問題視されていたのが列車同士の事故。
精密な時計がなく、時間が正確に計れていなかったことが大きな原因の一つでした。

正確に時を刻む時計の製作。
事故の件数を減らすためにも、これは当時の鉄道関係者の中での最優先事項となっていきます。
そこで白羽の矢が立ったのがハミルトンでした。
当時よりハミルトンが制作する懐中時計は精度がとても高いということで、多くの人々から支持されており、アメリカ政府の要請により多くの鉄道員の必須アイテムとなる時計を製作します。
「ブロードウェイ リミテッド」と名付けられたこのモデルは、まさしく正確な時間を計る命綱として多くの鉄道員から絶大なる信頼を得ます。

現在では宝飾腕時計からミリタリーウォッチまで幅広い生産モデルを取り扱うハミルトンですが、「The Watch of Railroad Accuracy」(鉄道公式時計)という称号を獲得したことで、鉄道用時計のメーカーとしてその名を全米に広げはじめることとなります。

 

 

2.第一次世界大戦と航空時計

その後、1910年にアメリカ陸軍へ時計の納入が開始され、1912年にはハミルトン社の軍用時計が標準支給品となり、第一次世界大戦を通じて兵士にも行きわたり、ハミルトンは高精度、高品質の時計ブランドとして知名度を高めていきました。
さらに、第一次世界大戦中にそのアイデアが生まれたとされる腕時計にもいち早く目をつけ、この時期から生産される商品を懐中時計から腕時計へとシフトさせています。

第一次世界大戦後、時代は陸路から空へと移り、まさに航空時代が幕を開けようとしていた時、正確で信頼性の高いハミルトンの時計は、飛行機のパイロットからも絶大な支持を得ました。
1930年に米国初の民間航空会社ができると、定期航空郵便の公式時計に採用され、就航のこの年ワシントンDCからニューヨークまでの初飛行にも航空用時計として採用されました。
ハミルトンは、アメリカの発展を時計という形で陰ながら支え続けていたのです。

 

 

3.第二次世界大戦での活躍とムービーウォッチ

第二次世界大戦中には一般向けの時計製造を全てストップし、ミリタリーウォッチの生産に全力を注ぎます。
船舶用の特殊時計「マリンクロノメーター」を生産し、軍用時計としての地位を確立していきながら、驚異的ともいえる100万個以上の軍用時計をアメリカ軍に供給し、兵士が戦場で使用するリストウォッチや、潜水工作員用のダイバーズウォッチもハミルトンが製作したとされます。
また、この時誕生した悪条件をものともしない耐久性と精度を備えながら、ミリタリーウォッチならではの一切の無駄を省いた機能美は、現在でもカーキシリーズに形を変えて引き継がれています。

プロモーション手法にも特徴があり、1932年公開の『上海特急』でスクリーンデビューして以来、戦後はスタンリー・キューブリック監督作品の『2001年宇宙の旅』をはじめ、『メン・イン・ブラック』や『イントゥ・ザ・ブルー』など、数多くの映画に自社製品を積極的に登場させています。
なお、これら70本以上の映画は公式サイトの「MOVIE STAR WATCHES」のページで紹介されていますので、時計だけでなく映画も好きな方は、一度ご覧になられてみてください。

 

 

キング・オブ・ロックンロールの幼少期

ハミルトンがアメリカ有数の時計会社、イリノイ時計を買収し、アメリカの時計業界を牽引するほどに成長を迎えていた頃、のちにハミルトンの価値をさらに高めることとなる一人の男が誕生しました。

エルヴィス・プレスリーの画像

今回の偉人、エルヴィス・プレスリーです。
彼は1935年1月8日、アメリカ合衆国ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれました。幼少期に父親が借金を負い、返済期限までに返すことができず服役するなど、非常に貧しい生活を送ったそうです。

エルヴィスにとって、1度目の人生の転機は11歳の誕生日でした。エルヴィスはプレゼントとしてライフルを欲しがりますが、当然母親に却下されてしまいます。
その代わりにプレゼントとして与えられたのがギター。これを機に自宅の地下で練習をはじめ、音楽に傾倒していきました。

1949年、プレスリーは14歳の時にテネシー州メンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居します。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育ち、エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていたそうです。ここでエルヴィスに、2度目の人生の転機が訪れます。

ある日、毎回欠かさずショーを観に行っていたエルヴィスでしたが、入場料を払えないとの理由で1度だけ見に行かなかったことがありました。
これに気を留めたのがショーの責任者でありゴスペル歌手でもあったJ.D.サムナーで、彼はエルヴィスに「次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、無料でショーを観ることができるよう計らいます。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされています。

しかしエルヴィスは高校卒業後、そのまま音楽の道に進むことはなく金型会社で就職、その後トラック運転手に転職します。
エルヴィスの幼少期から青春時代は、その後の成功が信じられないほど貧しいものでした。

 

 

人生の転機とアメリカン・ドリーム

ライブ中のエルヴィスの様子

1953年の夏にエルヴィスはメンフィスのスタジオで最初のデモテープを録音しています。
録音費用も自分で支払い、収録曲も当時のポピュラーなバラードである"My Happiness"と"That’s When Your Heartaches Begin"でした。

エルヴィス自身、この時点で歌手としてデビューしようと考えての録音だったのかどうかは定かではありませんが、音源はサン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーの耳に止まることとなりました。
エルヴィスの才能を感じたサムは、地元のミュージシャンであるスコッティ・ムーアとビル・ブラックと共にエルヴィスを売り出していくことを決めます。
この日からエルヴィスの伝説は幕を開けることになるのです。

エルヴィスの歌唱方法には幼少期の経験が活かされており、デビュー当初エルヴィスの歌声をラジオを聴いた人たちは、彼の歌い方の特徴から黒人歌手だと勘違いしていたそうです。
この時のアメリカは、黒人に対する差別の撤廃を目指した公民権法が施行される前だったということもあり、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていました。

当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載、ラジオなどで流れる傾向にありました。
例え同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった中、プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘されたのです。

また、エルヴィスは歌手としての人気はもちろんのこと、映画俳優としての活躍も有名です。
中でも、1957年に公開されたミュージカル映画『監獄ロック』は彼の3本目の主演映画でありながら、今なお語り継がれる作品となっています。
そんなエルヴィスの映画界での活躍が、ハミルトンとの繋がりを生むきっかけとなったのです。

 

 

映画とエルヴィスとハミルトンと

撮影中のエルヴィスの様子

エルヴィスとハミルトンとの出会いは、1961年に公開された映画『ブルー・ハワイ』で同作を着用したことがきっかけでした。
撮影に使用されたのは、1957年に登場した世界初の電池式腕時計であるベンチュラで、エルヴィスは撮影終了後もプライベートでも愛用するほどベタ惚れ。
本来は革ベルト仕様のものでしたが、金の蛇腹ストラップに付け替えてまで使用していたそうです。

その後、エルヴィスは他の映画でもこのベンチュラを着用して撮影に臨み続けました。
映画出演以降の彼の写真の腕元には、ハミルトン史上最もアイコニックなこのベンチュラが顔をのぞかせていることが確認できます。

1977年8月16日、エルヴィスはテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没しました。
戦前のアメリカの産業革命期を支えた時計を愛しながら、戦後アメリカの音楽業界を盛り立てた偉人の早すぎる死は、多くの人にショックを与えました。
現在グレイスランドにある彼の自宅跡は、プレスリーの様々な遺品や彼の愛車、愛娘の名前をつけた自家用機などが展示される博物館になっており、今なお世界中からファンや観光客が訪れています。

時代を問わず、人々を魅了してやまない歌声と人柄を持っていたエルヴィスも、最初から成功者だったわけではありませんでした。
ハミルトンもまた、なんの障害もなく順風満帆に会社を大きくしていけたわけではありませんでした。
それぞれ苦しい時代を通った経験のある両者だからこそ、エルヴィスも惹かれるものがあったのかもしれませんね。

ご興味を持たれた方は、ぜひ一度商品ページをご覧になってみてください。
もちろん、お電話やメールによるお問い合わせにもご対応しております。

ライブ中のエルヴィスの様子

          「オレはずっと悪い評判を受けてきたけど、

                                  それは覚悟しなきゃいけないことさ。」

                                                                         エルヴィス・プレスリー(1935〜1977)

ここまでのお相手は、スタッフ石田でした。