スイスの時計産業史
今や機械式時計の世界では自他ともに認める最高級の証となった『Swiss made(スイス製)』。
しかしながら、当初からスイスが業界の覇権を握り続けてきたわけではありません。
時代の大きな流れとともにイギリスやフランスから盟主の座を手にいれることとなったスイス。
ときにはアメリカや日本の挑戦を受けるなど、国内の時計産業自体が滅びかねない危機に直面することもありました。
それでも、そのたびにスイスは卓越した技術力と揺るぎない精神力とで不死鳥のようによみがえります。
今回の記事では、そんなスイスを中心とした時計産業史をほんの少しだけ覗いてみることにしましょう。
宗教改革と時計産業
16世紀当時のヨーロッパ各地に暗い影を落とした宗教改革。
それはフランスも例外ではなく、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派の人々が伝統的な価値を重んじるカトリック教徒と激しく争い合っていました。
そのとき迫害・追放されたユグノーの中には優れた時計職人たちも少なくなかったといいます。
主な亡命先はカルヴァン派の拠点があったジュネーブ。
こうして優秀な職人たちとともに時計作りのノウハウがスイスへともたらされました。
一方、宗教改革のあおりを受けて存亡の危機にさらされていたのがスイスの宝飾細工職人たち。
富をひけらかすことをよしとしない風潮のため仕事が激減していたためです。
職人たちは生き残りをかけて自分たちの技術を時計作りに生かそうと決意します。
宝飾細工と時計作りとの出会い、これこそがスイスにおける時計産業が産声を上げた瞬間でした。
時計産業の水平構造と垂直構造
スイスにおける機械式時計の製造は、多くがいわゆる水平構造と呼ばれる分業制をとっています。
これは、時計のパーツごとに専門のメーカーが存在するのが特徴です。
分業体制で製造されたパーツはエタブリスール(=組立業者)の元で厳しい品質チェックを受け、その後製品へと組み込まれます。
パーツ作りは、ジュラ山岳地域の貧しい農家が副業として行っていたため、人件費を低く抑えられるのがメリットでした。
ヌーシャテル、ベルン、ジュネーヴ、ジュラ、ヴォ―、ゾルトゥルンの各州や準州では今日でもスイスにおける時計産業の要です。
そのことは、雇用数や企業数がスイス国内の9割前後を占めていることからもうかがい知れるでしょう。
一方、一部のパーツ以外を自社内で部品の供給や組立までも行ってしまう企業もあります。
こちらはエタブリスールに対してマニュファクチュールと呼ばれますが、きちんとした境界線は明確ではないのが現状です。
時計産業の派遣をめぐる争い
英仏の没落とスイスの台頭
中世ヨーロッパ社会におけるギルドは、品質の維持や価格統制などの面で一定の成果を上げたといえます。 ところが、近世に入るとその閉鎖的・特権的な性質が批判されるようになりました。
17世紀に時計作りが産業として根付いたスイスでも、当初は時計産業のギルドが発足しました。
しかしながら、その後はいち早くギルドの解散を命じています。
時計製造の世界ではじめに覇を唱えたイギリスとは好対照の対応です。
イギリスでは逆に旧態依然としたギルドを保護する政策をとってしまい、これが国内の時計産業の衰退へとつながります。
もう一つの雄であったフランスも新しい時代への変化に対応できなかったとされます。
新興国アメリカからの挑戦状
19世紀半ばには英仏という二大大国を退けて時計製造のトップランナーとなったスイス。
これに対し真っ先に挑戦状をたたきつけたのがアメリカでした。
当時、新興国であったアメリカは、製造工程を機械化することで大量生産方式を確立することに成功。
高性能と低価格を両立させ、スイス時計の優位を脅かします。
圧倒的な生産力と効率化を武器にスイスを猛追するアメリカ。
しかし、この危機をスイスは同様の機械化を導入し新商品の開発を行うことで乗り越えました。
激震!日本発の"クォーツショック"
その後、一世紀あまりにわたってトップの座を守り続けたスイスの時計業界に大激震が走ります。
1969年、のちに「クオーツショック」と呼ばれる革命的な新技術が日本によってもたらされたのです。
はるかに高い精度とはるかに低いコスト、ぜんまいを巻く必要がなく衝撃にも強い。
こんなクオーツ式時計の前では従来型の機械式時計ではまったく太刀打ちができません。
まさに存亡の危機を迎えたスイスの時計メーカーでしたが、土壇場で乗り越えることに成功します。
実用面で勝負するのではなく、機械式時計にしかない魅力で勝負したのです。
いわゆる競合ではなく共存、住み分けを狙ったスイスの戦術はぴたりとはまり、機械式時計は美術品的な路線を歩み現在に至ります。